面白かった。
幕前、パンフレットを広げた所で、ああ、そういう作りか、と思った。
1場2場3場4場とあって、全部がお葬式となっている。
1場北村透谷の葬式。
2場正岡子規の葬式。
3場二葉亭四迷の葬式。
4場夏目漱石の葬式。
つまり場面転換はなし。
目の前に立つこのセットの中で、4回会話劇が行われる趣向のようだ。
高橋源一郎の日本文学盛衰史は、時空を飛び交うアバンギャルドな作りで、場面転換なしの会話劇とは対極をなす。
これから始まる演劇は、高橋源一郎の日本文壇史にインスパイアされた演出家平田オリザの何かなのだ。
なるほどね。
そういうことか。
平田オリザがね、スタイルを崩すことはしないよな、と合点がいったところで、幕が開いた。
軽妙で、それでいて含蓄が感じられる会話が重ねられ、ワールドが立ち上がっていく。
それは、白いカンバスに、一本一本、線が加わっていき、像が現れ、彩色され、絵になっていく様を見るようだった。
最初の15分くらいで、絵は出来上がった。
出来上がった絵をしばらく見ているうちに、これ、俺、途中で飽きるんじゃね?と思った。
結論からいうと、飽きなかった。
同じ絵を、2時間20分、退屈せずに観た。
上手だったし、興味のある題材だった。
前のお客さんは寝てた。
その気持ちも分かる。
だって、事件が起きないんだもん。
いろいろな事件を起こした明治の文豪が一同に会しているお葬式では、ある。
しかし、その事件はこのお葬式の場で起きない。
「あんなことあったね」と語られることはあっても、「今」起きることはない。
30年前ぐらいだったか、平田オリザの演劇が世に出てきて画期的だったのが、まさにこの「事件が起きないんだもん」「でも演劇として成立してる」だったのだから、今更俺がここで言うことではないのかもしれないけど、思いを新たにした。
高橋源一郎の日本文学盛衰史は、高橋源一郎が、文学するために言葉から新しいものを作らなければならない、言わばフロンティアに立つ明治の文豪という鉱脈を見つけて、これもろた!と書いた作品。明治の文豪の「今この瞬間」を、強くデカく情感たっぷりに描いているのが魅力で、読者の俺も、高橋源一郎の熱そのままに、明治の文豪に心を移して、ドキドキした。
平田オリザの日本文学盛衰史は、これとは違う。
明治の文豪を、客席から舞台の距離分だけ離れて、鑑賞する。
そういう作りだ。
ただ、完全オリジナルの作だと、登場人物も無色透明のところからスタートなところ、今作では森鴎外です、島崎藤村です、と言って、葬式の席に座っている。
これはこの種類の作品としては随分なアドバンテージだろう。
パンフレットの演出挨拶は「ぜひ、たくさん笑って、それから少ししんみりしてください」と結ばれていた。
心を移して、ドキドキする作りとは違うことが、このことからも察せられる。
そういう作品だ。
俺も、たくさんニコニコして、少ししんみりしました。
面白かった。
***
役者の演技では、けっこう句読点の間を入れて喋るんだな、と感心した。
俺は、間を空けると、怒られる環境で演劇しているもので。
前の台詞への食いつきを早くしておけば、自分が喋る番の句読点間は、案外、場が持つものなんだね。
今俺のターン、今俺喋るからね?という、気合を入れた顔は必要なんだが。
逆に言えば、顔で、間は埋められるようだ。