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2017年04月13日

語ってみた

昨日は「ボス村松の竜退治」の練習日だった。

おやつを中央に置いて本を読むというスタイルに3回ほどで飽きて、前回練習からフツーに立って練習している。

昨日は気分よく練習ができた。

やっぱ、コレかー。

昨日の気分の良さは、作演出主演の主演の部分。

このノリで一本通すという、演技の強度がしっくりくるところを見つけた。

どこにでも行けるような普段の体から、喋らなきゃいけない決まった台詞を出す。

これをやりたい。

昨日は、すこしやれた。

自分が役者として主戦場としているバブル芝居は、役者と役者の台詞が切れ間なくつながる話が進んでる感が基調となるために、なかなか普段の体が難しい。喋る順番が来た時に、あせる。普段の体ではなく、あせった体になる。




お芝居を見て、演技がつまんない。

そんな時、終演後の役者が台詞から離れてふつうに話しているのを見て、こいつらいい演技するなあと思ったりする。

お芝居中の体は、台詞を発声することに特化したビープ音を出す道具みたいになりがち。いかにもそんなようなビープ音が出てきそうで、またその通りのビープ音が出てくる。

普段の体からは何が出てくるか分からない期待感がある。出てくる音も単一音ではなく多重的だ。よい雑味がある。

塩化ナトリウムとモンゴルの岩塩の違いみたいなものだ。

もっとも、その塩味に関して俺は目隠しして舐めてみて、味の区別がつかない自信はある。

区別がつく人間は、不幸だよぐらいにまで思う。モンゴルの岩塩は、ちょっと高い。

でも、俺は演技に関して、区別をつけちゃう。

ビープ音か、多重的か。

味の決定的なところと感じてしまう。

俺は間違っているのかもしれない。

でも俺は、俺が面白いと思えるものをつくりたいのでしょうがない。

そんなに普段のノリを強調するなら、フリートーク風の会話劇をやるのがよかろうという意見もあろう。

でも俺が作りたいのはそれではない。

やっぱり俺は、俺の心血注いだ素晴らしく音楽的理知的(自己診断)な台詞で、一つの世界の豊穣を作りたい。

決まった台詞を決まってない体で。

何かスローガン風で、ちと決まりすぎか?

でもそうだ。

これの実現の鍵を握るのは、喋りたくなる前に喋らないということ。逆に言うと、台詞を喋る順番が来た時に喋りたくなる体を作るということだと思うんだな。

シーンの要求する企みに身を預けて、自分の台詞の順番に自分の喋りたいが合うように。

演技の場を提供する演出の方としては、台詞を入れるターンになった時に幅がある、焦らなくていい芝居の作り。



事前に、一個一個の台詞の音と意味と遊んでいると、自分の中の喋りたい度が上がる。

事前にたくさん遊んで愛着がついた台詞は喋りたくなる。

役者諸君には、ともすれば無味乾燥に思える台詞覚えにこの作業を足してもらえたらと思う。

しかし、そこまでの愛を俺の脚本にくれとも言えない。

俺にしても、愛しているからというよりは、あまりにもセリフ覚えが悪くて、覚えようとしてただただ台詞をこねくりまわしているのが、愛に似てくるという部分がある。

また、愛を強いて実ることがほとんどないことも、これまでの人生経験で明らかだ。

ここまで言っておいて、最後に留意しておきたいのは、愛着のある台詞を思ったように言えなくても、失敗したと思わないこと。

まあ、全部自分が演技することへの戒めだ。
posted by ボス村松 at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 劇団やってます | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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