林檎ちゃんが、ライブを決行したことで糾弾されている。
おいたわしい。
新型コロナは、感染力、致死率ともにだいたいインフルぐらいと聞いている。
インフルを冬の風物詩ぐらいに捉えている俺は、たいしたことないなと思っていたのだけれど、よくよく考えると、インフルぐらい人を殺すのはなかなかのものなのだった。(大きく数字をとった超過死亡という概念では)国内で毎年一万人殺しているらしい。
インフルという殺人犯が冬になると1人常駐するこの国に、今、新型コロナという殺人犯がもう一人加わって殺人犯が2人になる・・かもしれない。防がなければならない。その辺のせめぎ合いをしているようだ。一万人死ぬか、二万人死ぬか。
致死率は高くないので、死ぬ人は元々、何かあったら死んじゃいそうな弱い人が多いのだろうけど、弱い人が死んでもいいという論法は乱暴だ。乱暴だけど、ある程度はしょうがないじゃないか。ある程度ってどの程度だよ。何かあったら死んじゃいそうな人の中には白血病から回復途上にある、悲劇のカワイコちゃんスイマー池江さんもきっと含まれるぞ。いや、池江さんは・・、池江さんだけは・・。
林檎ちゃんの心中は分からないが「インフルと同じぐらいなら騒ぎすぎだよ」とコンサートを決行したなら、少し見誤った感がある。おれもそう思ってた。今もこれを書きながらも、大分そう思ってる。「騒ぎすぎ」
それでも一万人が二万人になるのは、大きな差異に思える。
面白いのは、この新型コロナの予防のために、みんながマスクして手洗いしてうがいをしていることで、インフルの方の発症がおおいに抑制されているらしいことだ。
風邪の季節が終われば、インフルと一緒に、新型コロナも治まるのだろう。
さて次の冬だ。
コンサートを中止してマスクして手洗いして学校を休みにすると、大いにウィルスの発症が押さえられるということを知った人間たちがいるとする。
その人たちは、いつものようにやってきた見知った殺人犯インフルに対して、コンサートを中止してマスクして手洗いして学校を休みにするのだろうか。
それをやれば、一万人を千人にできるとするならば。
俺は今、体の弱っている人たちへウィルスを移すことを防ぐために、コンサートを中止してマスクして手洗いして学校を休みとする「正義」を知ろうとしている。
そして同時に、コンサートを中止にしないマスクなし手洗いなし学校を休みにしない「悪」も知ろうとしている。
まさに光あるところに影あり。
正義が悪を生む。
正義がなければ悪もないのだなあ。
これまでの俺・・、インフルの予防接種を受けず、手も洗わず、うがいをしなかった俺は、感染拡大を是認する殺人同意者、もしくは(人に本当に移していたなら)殺人者だったのだ。
知りたくなかったなあ。俺のこの悪。
ほんの200年前、この国では切り捨て御免という武士の正義があった。今の倫理でいうととんでもない。
100年後、冬にコンサートをしていた今の時代も、とんでもない、ということなっているかもしれない。
次の冬、今世間を騒がせている新型コロナという殺人者は現れないかもしれない。
しかし必ずや、冬季常駐のインフルという殺人者は現れるだろう。
その時の正義と悪は、新型コロナを知る前の正義と悪と違っているのだろうか。
それとも半年経つことで、諸々が忘れられ、新型コロナを知る前の正義と悪と同じなのだろうか。
具体的に言うと、俺は今年、インフルの予防接種を受けるのだろうか、受けないのだろうか。
そして更にもっと近々で切羽詰まったところでいうと、
俺は俺が主催する4月末の公演を決行するのだろうか。
とりあえず、今は、保留ということで、稽古を週3で組んでいたところ週1にして濃厚接触の機会を3分の1にした。
客席の最大を15席と、通常の満席の5分の1に設定して、密集を避けた設定にしてみた。
新型コロナが治まってくれれば、満席を元に戻す。
戻していいのか?
二万人が一万人になっただけだぜ?
100年後の視座に立った俺の正義はうそぶく。
ああ、難しき、正義と悪。
公演開催は一月半後の話。
来週のことはどうする。
1回、練習があるぞ。
学校は休みになったけど、会社員は会社に行く。
同様に演劇人は練習場にいく。
これは自然な気がする。
ただ会社員が机に向かって黙々と作業に取り組むところを、演劇人は口吻熱く台詞をやり合う。
これは会社員とは違う。
避けなさいと言われている行動だ。
稽古をマスクしてやればいいのかな。
でもマスクないな。
タオルをしてやればいいのか。
ああ、もう! 一万人が二万人でも知ったことか。そんなんただの数字や。俺の知ったこっちゃない。
ああ、いや、でも、池江さんだけは。