金メダルかじり虫は、目に見えない小さな虫で、普段は体内に潜伏して大人しくしている。
しかし一度、金メダルの輝きを見ると活性化して、人を金メダルかじりに駆り立てる変な虫だ。
取材するカメラマンが「金メダルをかじったところを一枚」と注文してしまうは、活性化した金メダルかじり虫の仕業だ。
金メダルを取った当人が、言われてもないのにかじってしまう場合も当然、金メダルかじり虫の仕業。
活性化した虫の分泌する液が、宿主に幻覚を見せている。その時、選手には金メダルがおいしそうなチョコレートに見えているのだ。
ひょうきん者の政治家が、表敬訪問した選手の金メダルをかじって問題になった。
選手同様に金メダルが(アイテムボケのお題として)おいしそうに見えてしまったためだ。金メダルかじり虫め! …と考えられたが、これには異論もある。後述する。
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歴史を紐解くと、金メダルかじり虫に罹患した最初の人物に行き当たる。1968年メキシコオリンピックの重量挙げ選手、オモイノ・モチアゲール選手だ。金メダルが公の場でかじられるのは史上初の出来事だったので、会場は騒然となった。
多くの人にとって金メダルはおいしそうに見えない。
むしろ食べるに固そうだ。
悲願が形になった特別なモノであることは理解できるが、だからと言ってそれにかじりつくのは、子供じみた行為だ。
幼い子供が、手にしたものを口に入れて、お母さんに怒られるのはよく見られる景色だが、子供は怒られて、分別がつき、大人になって、食べ物だけを口にするようになる。たまに愛する人にキスをする。
何でも口に入れるのは、衛生上よろしくない。
大人が金メダルをかじっては、子供に示しがつかないじゃないか。
おまえはいい大人だろう。
オモイノ選手は大いに批判された。
この時の金メダルかじり虫はアルファ型で、金メダリストのみを宿主とした。
一般の人間の体内に侵入することはできなかった。
しかし次のオリンピックまでの四年間に、金メダルかじり虫は変異して、多くの人体に常駐するようになっていた。金メダルかじり虫ガンマ型の登場である。
ガンマ型は報道を介し電波感染して広がった。
ガンマ型は、金メダルをかじることを、肯定した。
価値の逆転を宿主にもたらした。
すなわち、大人の分別を俗、子供の純粋を聖としたのだ。
1990年代になると、金メダルかじり虫は弱毒化し、意味を失い形式となった。
獲得イコールかじるという、いわば内面を失った儀式となった。
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そして東京2020で発見されたデルタ型の話となる。
ひょうきん者の政治家が金メダルをかじり、多くの人は眉をひそめた。
強毒であり、新しく登場したこのデルタ型は、その毒性において、批判を呼んだアルファ型への先祖返りではないかと当初、目された。
ネット記事で第一報を知った筆者も、そう思った一人だ。
しかし、映像で確認してみると、ひょうきん者の政治家は、かじるという以上に金メダルをまるっと口に含んでいた。
これは金メダルかじり虫が原因ではないかもしれない。
”オーケストラ奏者のフルートなめ虫”のせいかもしれない。
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”オーケストラ奏者のフルートなめ虫”の存在は、若かりし日のタレント内村光良氏が自身の番組で、オーケストラ奏者のフルートをことさら大仰になめて、持ち主を泣かせたことで知られるようになった。
「ウッチャンナンチャンのやるならやらねば」だったか「笑う犬の生活」だったかの、コント内でのシーン。
内村氏は変なお兄さんとしてオーケストラに乱入、打楽器奏者からはバチを取り上げ適当なリズムでティンパニーを叩き、バイオリン奏者からはバイオリンを取り上げ乱暴にピチカートした(のようなことをした)。フルートはなめられた。(これは覚えている)
それは無茶をして笑いを取るという手法だった。
オーケストラというキチンとした人たちの大事な楽器を取り上げてモノボケのお題にするのは、無茶としても攻め込んだものだった。
果たしてフルートを舐められた持ち主は泣いた。汚されたと感じたのだろう。
内村氏は、慌てた。
土下座して「お金で解決できることなら」と口走った。
適切な言葉ではない。
しかし、それすらも、面白かった。そういう時代だった。
一方でひょうきん者の政治家の金メダルなめは、面白いものとして受け取られなかった。
権力者の無法として、ネットで袋叩きになった。
行為としては、内村氏と同じことなのに。
”オーケストラ奏者のフルートなめ虫”もまた、変異していたのだ。
いや、その結論はちがうだろ、という声が上がる。
行為は同じでも、やった人物が違うだろとその声は言う。
お笑いタレントとおとぼけ政治家という、虫の宿主の個体差こそが、結果に大きな影響を与えると考える虫研究家がいるのだった。
何でもかんでも、虫の変異のせいにするなというわけだ。
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とはいえ、虫が変異することには、気を付けなければならない。
法治国家の基本とも言える罪刑法定主義によれば、明文化されていない罪に問われることはない。
学校でそう習った。
現行法が過去に遡って、過去の行為を裁くことも、また、できないとされている。
しかし、虫は法の範囲外にある。
なぜって虫だから。
虫に法は関係ない。
虫はパンデミックと言っていいほどに世界に蔓延して、人間の意識に影響を与えている。
正義と虫が結びつくと、声が大きくなるという傾向がみられる。
虫は変異するのが特徴。
一方で正義は普遍を指向する。
その食い合わせは悪く、普遍と変異を同時に抱えることは、その声に矛盾がはらむことを意味する。
というわけで、正義を声にしたいときには、虫への感染の注意が必要だ。
そもそもが正義という概念自体に胡散臭いところがある。
思考を一旦止めて、その時点でのイデオロギーを押し通す喧嘩腰の別称ではないのか。
などという正義に対する懐疑も、別の立場から正義を語っているにすぎない…のではないか。
という懐疑も、また別の正義。
という懐疑も、また別の正義。
これは延々と続く。
遠くに行けば行くほど意味が希薄になる不毛のループだ。
ならば、いい塩梅のところで思考を一旦止めるしかないのだろうか。
どこで、止めるのか。
注意が必要だ。
以前、このブログでモテない男(俺)がAV女優に救われたという話を書いた。そこでAV女優さんにありがとうと言った。
同様に昔、従軍慰安婦に救われた兵隊さんもいたことだろう。
これをもって、従軍慰安婦さんにありがとうと言ったら、きっと怒られる。
男性による女性の性の搾取という観点からみると、AV女優さんと従軍慰安婦さんの間に明確な線引きはないように思われる。
緩やかなグラデーション中の、ある一点とある一点という違いしかない。
俺のAV女優さんへの感謝は、軽率な記述だった。
ごめんなさい。
男性による女性の性の搾取のない世界に向かって進むのは正義である。
AV女優さんは、正義の名のもとにいずれ、なくなる存在だ。
そんな中、紗倉まなさんは、歴史に咲いたあだ花だ。
しかし、その花のなんと蠱惑的なことか。
紗倉まなという花を咲かせるための、ここまでの間違った歴史だった。
過去に、紗倉まなさんが「AV女優は天職」と発言したのは、彼女にとって救いなのか、より大きな悲劇なのか。
AV女優さんと従軍慰安婦さんとの違い以上に、AV女優さんと女優さんに違いはあるのかは、気になるところだ。
女優さんもいなくなるの?
ルッキズムという流行り正義がある。
いずれ美人女優が平凡なOLを演じることもなくなるだろう。
平凡なOL役は平凡なそこらの小劇場女優が演じることになる。
小劇場女優にとっては朗報だ。
ブサイクが平凡なOLを演じることに性の搾取は感じられない。
女優は形を変えて生き残ると考える。
しかしAV女優さんとグラビアアイドルさんと清純派アイドルさんの違いに関しては、服の面積の違いだけだ。それ以上の違いはない。
男性として50年弱過ごした俺の実感は、そうだ。
正義の名の下、アイドルさんはきっといなくなる。
俺、変なこと書いてないか?
明日になって後悔しないか?
注意が必要だ。
全方向に注意を払えば、当然、一個一個に対する注意は希薄となる。
いっそ怒られる覚悟を持てば注意の必要はない。
そっちが楽かもしれない。
ところで、俺は怒られるのが嫌いだ。
怒っている人と怒られている人だと、怒られている人に心を寄せる。
おおむね怒られる人は悪いことをしている。
悪いことをしたから怒られているのだから、それって当たり前だ。
俺は怒られる側に心を寄せるとい言った。
しかし俺は悪いことが好きというわけではない。
10−0の正義がおっかないのだ。
正義をもって怒られるときにも、7−3ぐらいで怒られたい。
俺が怒られている人に心を寄せるのは、7−3の、3の側に立っているということだ。
逆に正義が6−4になっちゃうと、6の側に立つのかもしれない。
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だからお前は何が言いたいんだと言われそうだ。
率直に言うと、この新型コロナからオリンピックにかけて沢山の人が怒られてきたことについて言っている。
みんな厳しく怒り怒られすぎなんじゃないか、ということ。
この記事は、そんな昨今の情勢に対する俺の感想文だ。
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怒る側の人が、ひとつのやらかしに対して、「なぜそんなことをしたのか理解できない」と言う。
よく言う。簡単に言う。
この「よく」「簡単に」という強調は統計的に精査したわけではなく、俺のただの印象で、それにはごめんなさい。
しかしである。
そこは脇に置いておいて、理解できないって本当かな、と思う。
俺は、どんなやらかしも、俺が一万回生きたら、どこかでやらかすやらかしのように思える。
特に金メダルかじりは、100回生きたぐらいのところで、1回かじる。
同じ人間、他人のやることも、自分の胸に手を当ててみれば、全部自分の中にあることなのではないか。
怒る前に一息入れて、胸に手を当ててみようじゃないか。
いや、強いて当てなくてもいい。
同じ人間なんていないという言葉も、一方ではあるよ。
「本当に理解できないのだ。だから怒っているんだ」
そう言われたら、なるほど、そういうものかとも思う。
たしかにあなたとわたしは違う。
永遠に交わることのない別の宇宙だ。
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ここで、ブルーハーツのトレイントレインを思い出して、改めてすごい歌詞だなと思う。
良い抽象的な言葉は、多くの具体的な事柄を引き受ける。
トレイントレインの歌詞は、よい抽象的な言葉によって紡がれている。
♪栄光に向って走る あの列車に乗って行こう
列車は時代、線路は人類の歴史。
♪弱い者たちが夕暮れ さらに弱い者をたたく
ネット民が「この人は今叩いてもいい人」となった人を、ボコっているよ。
♪その音が響き渡れば ブルースは加速していく
栄光に向って走るはずの列車に流れる曲は、ブルースなのだ
♪トレイントレイン走ってゆく トレイントレインどこまでも
加速するブルースはいつかキュルキュル言いだして、メロディの体をなさなくなり、栄光に向って走る列車はどこまでも走って行き、どこまで行ってもどこかにたどり着くことはない。
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ここまで書いて、俺が今回心をよせているおとぼけ政治家は、今現在どんな心持ちなのだろう?と知りたくなった。
俺はツイッターに親しんでいるので、ついつい、おとぼけ政治家が弱い者に思えて、ボコボコに叩かれて痛い痛いと泣いているようにイメージした。
しかし実際のところ彼の人はツイッターをやってなさそうか?
ツイッターの声は、遠い世界の反響ぐらいのものか。
彼の人はツイッター上では、袋叩きで劣勢の者だが、現実社会では市長なので、強者と言える。
何があったの?ぐらいに、へっちゃらなことも考えられる。
俺が「わかるよドンマイ」と肩を叩きたい人は、実はへっちゃら。
この辺りのオチが、自分の書きものにはちょうどいい。