第5話「タチャーナ」を公開中!
「ボス村松の外科室」
作画/出演 ボス村松
泉鏡花の短編小説「外科室」がモチーフ。
後日譚と前世の因縁を付け加えた長編戯曲を、
アニメ動画にしています。
全20話予定。
随時更新していきます。

2023年01月24日

青年団「日本文学盛衰史」鑑賞

面白かった。

幕前、パンフレットを広げた所で、ああ、そういう作りか、と思った。
1場2場3場4場とあって、全部がお葬式となっている。

1場北村透谷の葬式。
2場正岡子規の葬式。
3場二葉亭四迷の葬式。
4場夏目漱石の葬式。

つまり場面転換はなし。
目の前に立つこのセットの中で、4回会話劇が行われる趣向のようだ。

高橋源一郎の日本文学盛衰史は、時空を飛び交うアバンギャルドな作りで、場面転換なしの会話劇とは対極をなす。
これから始まる演劇は、高橋源一郎の日本文壇史にインスパイアされた演出家平田オリザの何かなのだ。
なるほどね。
そういうことか。
平田オリザがね、スタイルを崩すことはしないよな、と合点がいったところで、幕が開いた。

軽妙で、それでいて含蓄が感じられる会話が重ねられ、ワールドが立ち上がっていく。
それは、白いカンバスに、一本一本、線が加わっていき、像が現れ、彩色され、絵になっていく様を見るようだった。
最初の15分くらいで、絵は出来上がった。

出来上がった絵をしばらく見ているうちに、これ、俺、途中で飽きるんじゃね?と思った。

結論からいうと、飽きなかった。
同じ絵を、2時間20分、退屈せずに観た。
上手だったし、興味のある題材だった。

前のお客さんは寝てた。
その気持ちも分かる。
だって、事件が起きないんだもん。

いろいろな事件を起こした明治の文豪が一同に会しているお葬式では、ある。
しかし、その事件はこのお葬式の場で起きない。
「あんなことあったね」と語られることはあっても、「今」起きることはない。

30年前ぐらいだったか、平田オリザの演劇が世に出てきて画期的だったのが、まさにこの「事件が起きないんだもん」「でも演劇として成立してる」だったのだから、今更俺がここで言うことではないのかもしれないけど、思いを新たにした。

高橋源一郎の日本文学盛衰史は、高橋源一郎が、文学するために言葉から新しいものを作らなければならない、言わばフロンティアに立つ明治の文豪という鉱脈を見つけて、これもろた!と書いた作品。明治の文豪の「今この瞬間」を、強くデカく情感たっぷりに描いているのが魅力で、読者の俺も、高橋源一郎の熱そのままに、明治の文豪に心を移して、ドキドキした。

平田オリザの日本文学盛衰史は、これとは違う。
明治の文豪を、客席から舞台の距離分だけ離れて、鑑賞する。
そういう作りだ。
ただ、完全オリジナルの作だと、登場人物も無色透明のところからスタートなところ、今作では森鴎外です、島崎藤村です、と言って、葬式の席に座っている。
これはこの種類の作品としては随分なアドバンテージだろう。

パンフレットの演出挨拶は「ぜひ、たくさん笑って、それから少ししんみりしてください」と結ばれていた。
心を移して、ドキドキする作りとは違うことが、このことからも察せられる。
そういう作品だ。

俺も、たくさんニコニコして、少ししんみりしました。

面白かった。

***

役者の演技では、けっこう句読点の間を入れて喋るんだな、と感心した。
俺は、間を空けると、怒られる環境で演劇しているもので。
前の台詞への食いつきを早くしておけば、自分が喋る番の句読点間は、案外、場が持つものなんだね。
今俺のターン、今俺喋るからね?という、気合を入れた顔は必要なんだが。
逆に言えば、顔で、間は埋められるようだ。


posted by ボス村松 at 21:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月20日

日本文学盛衰史を観に行くぞおおおおお!

今日は、演劇を見に行く。
青年団「日本文学盛衰史」だ。

日本文学盛衰史は高橋源一郎の著作。その舞台化。再演である。
俺は日本文学盛衰史が大好き。高橋源一郎のさようならギャングたちと、虹の彼方にと、ゴーストバスターズと、日本文学盛衰史は、俺の読書遍歴の中で、甲乙つけがたく、ベストの作品だ。もちろん、モンゴメリの赤毛のアンも最高だ。フランクマコートのアンジェラの灰も最高。カミュの異邦人とペストも最高。あと何かあったっけ?あ、サンテグジュペリの夜間飛行もだ。ただ、ここ20年ぐらいは、もう、全く本を読んでいないことは、付記しておかなければならない。

ああ、口惜しい。日本文壇盛衰史が舞台化されていたなんて。
平田オリザは、二葉亭四迷と国木田独歩が連れだって、雪の中の文公の死を看取る場面をどう描くのだろうか?
あの場面は、全ての芸術鑑賞において、一番、俺の頭と胸が揺さぶられた場面なんだ。
もちろん、アダルトビデオは対象外ということを付記しておかなければ、嘘になってしまうが。

日本文学盛衰史は、筋なんて有って無いような小説だから、小説のどこをどう切り取って描くのか、翻案はやり放題にも思える。
文公の死が、ピックアップされてない可能性もある。

ああ、楽しみだ。

面白かったら、拍手喝さい。
よしんば、つまらなくても、やっぱり俺が舞台化しないとだめなんだろうなあ!といい気分になれる。

お嫁さんと連れだって見に行くのだが、お嫁さんもこの日本文学盛衰史に飛び切りの感銘を受けた人でありまして、彼女に面白いよと勧めたのは俺の方だけど、彼女はそこから伊藤整の日本文壇史を全部読んだというのだから、ハマった沼は俺よりも深い。

観劇後、吉祥寺のどこかで飯を食うことになるのだろうが、感想を言い合うのも、これまた楽しみ。

こんなに約束された一日は、なかなかない。

観劇前に、小説の方を読み直して、想いを新たにしておこう。
posted by ボス村松 at 10:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月10日

動物電気「肉のマサオカ 〜商売繁盛記!〜」観劇

動物電気.jpg

宿題を抱えた昨日、行くのに腰が重かった、下北沢の芝居が面白かった。
動物電気という劇団のお芝居だった。
この劇団の観劇は2回目。
新作なんだけど、前回見たのとほとんど同じ話の作りだった。
ただ演劇として、ドリフ的な、新喜劇的なアプローチなので、話の作りは同じでいいんだろうな。
お客さんもコレを見に、劇場に足を運ぶのだろう。
いっぱいお客さんが入っていた。
うらやましい。

海の女王が精肉店にやってきて、それによって不思議なことが起きて、精肉店はてんやわんや。
そんな話。

出演者の芸達者ぶりは、俺の観劇史上最高レベル。
こんな変な動き見たことない、とか、こんな変な顔見たことないとか、おもしろ演技目白押し。
会場は爆笑に次ぐ爆笑でもいいんだけど、この日はそんなでもなかった。
芝居は生ものなので、そんな日もある。
俺も、面白いなあ上手いなあと眺めていたが、作り手側としては、もっと来いよ!というお客さんの一人だったろうと思う。

その中で、看板役者の小林けんたろうさんが演技をしていると、眺めている心持ちが舞台の方に近づく。
小林けんたろうさんの役は、本筋のてんやわんや話とは外れた、「小劇場の人が演技する物語」の主人公だ。
演技なのか、地肩なのか、小林さんの演技には少し困っている味があって、おもしろ台詞に厚みを感じた。
出汁が利いてるというか、お話を背負った演技だった。

一方、本筋のてんやわんやでは恋が語られる。
脚本としては、おもしろ台詞の応酬をするための土台として恋があるぐらいのもので、恋に対しての知見や仕掛けはほとんどないに等しい。
それでも演出のマジックなのか、役者の技量なのか、多分、その両方なんだと思うんだけど、ところどころの「あなたが好き」演技が、単独突破で俺の胸をついた。
演技って話の説得力とか、そういうのを取っ払って、一発で点を決める力があるんだな、と演劇の末席にいる者として力をもらった。

その中で(書き割りの)海に去っていく女王に向けての一言が、特に印象に残った。
「波が高すぎる」
女王に恋するサーファーが、去っていく女王を追って海に入って、追えない、これでサヨナラという台詞。
観劇中は、何で俺、今、この演技にグッときた?と不思議に思ったのだが、今ここで書き起こして、台詞としてもいい台詞だ。演ずる森戸さんの(書き割りの)海に向かって呆然とする背中が雄弁だった。

作演出で狂言回し役の正岡さんの仕事量とその確かさに俺が小さくなった。
あれだけ自在に舞台の上を回せれば、楽しいだろうな。


posted by ボス村松 at 17:31| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月09日

コンプソンズ「何を見ても何かを思い出すと思う」観劇

物語の登場人物は、小劇場界隈の人間。

つまりは自画像のようなお芝居だ。私小説みたいなお芝居だ。

登場人物たちは、時間軸がごちゃまぜになったファンタジー空間に、いる。

そのファンタジー空間は、お話の外、つまりは現実世界の下北沢の「劇小劇場」と意味を重ねる

演劇の舞台の上ほど、なんでもアリが利くファンタジー空間ない。

現実世界ほど、カキワリのファンタジーの、つっかえ棒になってくれるものはない。




登場人物は、お互いの関係を覚えていたり、忘れていたり、思い出せそうだけど思い出せなかったりしている。

そんな状況で、登場人物たちは、くだをまく。悪態をつく。ときに、愛や友情でつながる。

話題はおおむね、小劇場で演劇をする意味と無意味について。

割合として、小劇場で演劇することに、意味あるが2、無意味が8で語られる。

ただ、忘れていたり、思い出せそうだけど思い出せない状態の彼らゆえ、まっすぐには答えにたどり着けない。

意味にも、無意味にも。

答えに向かうその途上に、タイトルの「何かを見て、何かを思い出す」というワンクッションが入る。



思い出すという行為には、その行為自体に、特有の甘さと切なさがある。

ゆえに、舞台の上は「小劇場なんて意味ないよ!」という言葉で8割がた占められているにもかかわらず、思い出すというワンクッションが挟まると、6割「小劇場にだって意味あるよ」と言っているふうに観客には聞こえる。俺には、そう聞こえた。

話の筋は、主人公とヒロインが、芝居冒頭で一緒の布団で寝てた状況に、何これ?となって、その何これ?の答えを探しに行って見つけるまでのもの、とまとめられるかもしれないが、そんなに重要じゃない。

話の筋なんて、実際のところ、あってないようなものだ。

ただただ、登場人物がくだをまくのに、付き合う二時間だ。

そのくだが、おもしろかった。

うまかった。



ミュージシャン名、楽曲のタイトルが多く出てきたが、案外知ってる名前が多かった。

舞台を作る彼らとは20年を隔てている俺だけれど。

彼らが案外、昔の歌を聞いているのと、俺がカラオケ屋でバイトしていることで、歩み寄りがあったのかもしれない。


***


劇団主宰「なんで、俺が小劇場をやってるか?…か。なんでだろ…。おまえは?」

劇団員「俺はおまえに、ついて行ってるだけだから」

見せ場として作られていない、何気ないやりとりがあったのだが、俺はここに、キュンときた。

でもこの作品の作家、金子さんは、小劇場を続けることになかなかポジティブなことを言わない劇団主宰に対して、劇団員に「なんだよ。就職やめて失敗だったかな」と言わせてしまう。

金子さんのリアリティは絶対そうなんだろう。

「俺はおまえに、ついて行ってるだけだから」で終わる人間がいる世界は、嘘なんだろう。

でも観客は、お話に、気持ちのいい嘘を見たいのだった。

ありきたりで平凡な嘘ほど、上手につくのは、難しいというのはある。

でも俺は、あの劇団員を忠誠度100のままにしておいても、よかったと思う。

あの劇団員の存在は、とても上手な嘘になっていたと思う。

でも、まあ、好みの問題なのかもしれない。
posted by ボス村松 at 14:34| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年03月04日

ワールド学園「ファートプリンスU世」観劇

大島あさひくんが、作・演出・出演の「ワールド学園/ファートプリンス・エドワードU世」を見てきた。

大島くんは、コロナ禍で去年上演が中止になったボス村松の自転車泥棒に、出演予定だった日芸生。

稽古当初、彼は、とにかく漢字が読めないのと、うちの劇団名が覚えられないのが目立つ、出来ない子キャラだった。

演技もちょっと固かったかな。

それがですよ、公演中止が決まっての思い出作り初通し稽古で、彼の演技が突然、変わった。

自分笑いをするぐらい、天才的なゆるゆる演技になったのだ。

楽しそうな大島くんを見て、見ているこっちも楽しくなっちゃった。

出来ない子が、一転、この子、恐ろしい子の評価になった。

その彼が、卒業公演を主宰するという。

彼が、本当にやれる子なのかどうか、確かめに行かねばなるまい。

漢字も読めないのに、どうやって脚本を書いたんだ?


***


会場のキーノートシアターは西日暮里。自転車で行った。

帰りにウーバーをしようと、バッグを担いだ。

初めての劇場。シンプルで使いやすそう。

メモっておこう。

さすが日芸生の卒業公演とあって、照明、音響、映像が整っている。

役者は若くて美しく、台詞をちゃんと覚えている。

脚本は、悩める王子が、おならで悪のウィルスを吹き飛ばして、死ぬというナンセンスなもの。

途中、歌って踊って、殺陣をして。

若くて美しくない人間(俺のことね)が、青春のきらめきに触れて、うらやましくなっちゃった。

それだけで十分なのかよ、みたいな。

特にヒロインの深谷侑未さんの、素を少し残した風の清純派の演技は、どうしても好みなので、出番がくるとはアイドルを追う目で見てしまった。

むろん、若くて美しくない人間の侘びた味、考え抜いた言葉、というのもあるので、自分を卑下する一方でもない。

俺は俺で、できることをやる。

結論として、大島くんは恐ろしい子でした。


***


帰りにウーバーのアプリを開いてみると、ピークエリアが広がり、大きな街がある周辺は、ピークエリア表示の赤で真っ赤っか。

西日暮里から自宅までの道中で、ピークエリアに入った瞬間、満を持して、ウーバー開始のボタンを押したが、

全く注文が入らない。

一件だけ配達して帰宅した。なんでだ。

無念。
posted by ボス村松 at 18:09| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年08月28日

東京夜光「BLACKOUT」観劇

東京夜光「BLACKOUT」見てきた。

2時間を超える作品を、緩まず見せる、脚本、演出、役者の力量に感服して、いやんなっちゃうね。

話としては、コロナ禍下で演劇することの困難と意義を前面にだしつつ、もう一歩根っこに分け入って、なんで金にならない小劇場なんてものをやっているのか…その言い訳を説いたバックステージ物。


***


主人公は小劇場の劇団主宰(作家・演出家、赤字持ち出し)。Aくん。

でも、演出助手としてなら逆に、ギャラももらえて食っていけるよという周囲のヒキに、どうしよっかなと悩む。

助演の筆頭格は、小劇場で名を上げた後、映像で新進気鋭の評価を受けている脚本家/演出家。Bさん。ほぼ活動休止といった状態で自劇団はまだ存続している。


***


この芝居で語られる芝居には以下のものがある。



1商業・アイドル・おもしろくない

2商業・アイドル・おもしろい

3小劇場・作家性強く唯一無二の一点物

4小劇場・おもしろいだけ

5商業か小劇場か不明・人生を狂わす奇跡の芝居・観た人は芝居を始めちゃう

62020年8月末に三鷹星のホールで行われる芝居



芝居の大部分の時間は、Bさんが妥協を交えつつ1から2を目指す稽古場を、Aくんが支えるというもの。

Bさんは3を作り出す才能ある人として描かれているが、Aくんがそれに同意しているかどうかは、ハッキリとしないまま。

芝居の外側にいる実際の観客(俺)には、この劇中の稽古場で作り上げられる作品が面白くなるとは思えない。

作家さんも、多分、この劇中劇はアカン芝居として書いている、はず。

でも、話の作りとして、この劇中劇は面白い芝居でないと座りが、悪い。

そうでないと、つまんない芝居をみんな面白いフリをして、作っていることになるからだ。

…。

ここまで書いてきて、ハタと気づいた。

この面白いフリの姿勢は普段の自分と、同じじゃん。

そういえば、俺は(そして多分、多くの芝居に関わる人間は)、いつもそんな座りの悪い思いをしながら、芝居を作っている。

意地悪だな。

痛い所の芝居あるあるを、非難がましくなく、サラっとぶつけてきたのか。



いや、この結び方も違うな。



劇中劇を、本当に面白いと思っている、劇中の人もいる。

劇中劇を、実は面白くないと思っている、劇中の人もいる。

劇中劇を、本当に面白いと思っている、実際の観客もいる。

劇中劇を、この芝居はつまんないだろ、と思っている実際の観客もいる。

視線の分だけ、価値判断がある。そういうことか。


そんな懐の深さをこの芝居が持っているのは、神様視点(作家の意図)が、主張として語られていないからだ。




Aくんは、劇中で4として評価されるが、この演目のラストで6を作ることになる。

6は、観客には、この演目「BLACKOUT」と重なって見えるように設計されている。



Aくんが、作家本人の投影であることは間違いないと思われるが、どこまでなのか。

作家本人のこの作品の自己評価が、3なのか4なのか、はたまた5なのかは気になった。



現在の演劇の批評という面がこの芝居にはあるので、7小劇場・つまらない の存在にも触れないと片手落ちかなとは観劇中に思ったが、劇中劇の座りの悪さは7の典型のようにも思われるので、あえて触れなくてもよい気も、今はしている。

8商業・面白い もあってほしい。

でも、二時間を超えているので、これ以上話を付け加えられないというのも、わかります。
posted by ボス村松 at 12:47| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年02月23日

シンクロ少女「ベター・コール・ショウジョ」観劇

おもしろかった。確かな力だ。地力がすごい。これが三役の力か。組んだ瞬間に分かるという奴だ。

ラストシーンが、映画やドラマでいうと、エンドロール後の付け足しみたいな位置にあって、それがどんでん返しになっている。

それが、もう、鮮やかで、してやられてしまった。

父がいて、姉妹がいる。母は他界している。そんな家族の話。

姉は結婚していて尻に敷いている旦那さんがいる。

妹は駆け出しの女優で、魅力的な恋人がいて、視界良好。ただ母の死に彼女は関わっていて、彼女の悪戯にびっくりして、母は心臓発作で死んだ。

この母の非業の死は、主に妹の罪の意識、悲しみとして語られるが、その実、姉にとっても父にとっても「妹が母を殺した」世界線の上で生きていくことは、そんなに簡単なことではない。

この母の死に、どう触れるか、はたまた触れないでいるかによって生まれる立ち振る舞いが、テーマや笑いを生む。皆、一様にチャーミングでぎこちない。テーマは「信頼」とチラシには謳われている。

芝居に限らず、テーマがある創作には、そのテーマの解決に向かうことを物語の推進力にしている創作と、テーマの周りの悲喜こもごもだけを描いて作家の視線が裏に隠れる創作があるように思う。

この芝居は前者であるように思われ、それは、物語に強い骨格を与える一方で、オシャレ度を少し下げる。

この芝居は前者のタイプであるように思って、俺は観劇していた。

前者、後者に優劣はない。

ただ、ラストのドンデン返しで、俺はひっくり返った。

作家さんの技が、批評家気取りの俺の目線の一個上を行って、俺は投げ飛ばされた。

俺が脚本を書いたり、芝居を作ったりする人間でなかったなら、諸手をあげて拍手したことだろう。

俺は脚本を書いたり、芝居を作ったりする人間なので、チクショーやられたあ、と拍手と共に悔しい思いをした。

満員の客席に嫉妬していたのもあると思う。

でも、本当にこれぐらい面白い芝居を作っていただけると、小劇場はおもしろいということになって、大変よいことだと思う。

シンクロ少女さんには、ありがとうございました。








posted by ボス村松 at 08:07| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月21日

お嫁さんを風姿花伝に派遣

からまわりえっちゃん@風姿花伝の金曜昼公演を見て、感嘆。

その夜公演に、若かりし頃、新感線もピスタチオも観劇していたお嫁さんを、派遣する。

チケット代は俺が持つからと言って。

俺が見たこの演劇体験は、新感線だったのか?ピスタチオだったのか?それとも、この劇団のオリジナルなのか?

お嫁さんと、そんな話をしてみたくなったのだった。

果たして、お嫁さんの答えは、新感線とピスタチオだったとのこと。

音の使い方は新感線、パワーマイムはピスタチオ。

でもその手法を使って、過剰に畳みかけてくる勢いにオリジナリティがあったらしい。

とにかく、出てくる役者出てくる役者、みんな上手かった。スペクタクルだったね。すばらしい。等々の賛辞がお嫁さんの口から続いた。

俺もそう思ってた。同意見だ。

役者が一秒あたりに使う演技要素が、俺が普段見る芝居の3倍ぐらいあったように思う。

中パンチ一発のところを、小キック→ステップバック→中パンチ、みたいな感じでコンボになっている。情報量が多い。

その一連の技が役者のナルシズムに沿っていて、テクニックだけじゃない、なめらかな色気を生んでいた。

芝居の作りとして場面転換が多すぎともお嫁さんは言ったが、俺はそここそが加点ポイントだった。

ミュージックビデオみたいで、テクニカルで、そこがカッコいい。

話がハッキリと捉えられなくなる分、抽象度が上がって、頭よく見える。

なんにせよ、喜んで見てもらえてよかった。

俺が芝居見に行ってみない?とメールしたとき、お嫁さんは残業中。

夜公演には行けないタイミングだったのだけれど、「旦那が芝居見て来いと言うものだから、ここで切り上げていい?」と同僚に願うと、同僚は「私も行く」と言って、二人で劇場に向かったのだった。

俺一人の観劇で都合二人、新たに劇場に足を運ばせたことになる。

面白い芝居を作るとそういうことも起こりうるということで、噂が噂を呼んで客席満杯というのも、空論ではないことがわかった。

作れるものなら、面白い芝居を作った方がよいようだ。


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2019年12月20日

劇想からまわりえっちゃん「たまには卒アル読み返せ。ついでに見つけたコーラ味の消しゴムが仄かにまださ、臭いじゃん。そんな感じ!」観劇

いやー、すごかった。かっこよかった。

劇想からまわりえっちゃんの芝居を観て来た。

ロープレゲームに飛び込んだ少年の、自分探しの話。

100回見て、100回つまらなかった題材が、こんなにカッコよくなるなんて。

一点の隙しかない(声を張りまくりまくりの芝居だから主軸の役者の声が枯れてきている)卓越した技量を持った役者が、修練を重ねた動きで俺を圧倒した。形式の美しさに、役者のナルシズムがこもっている。それが俺にも伝わって俺もうっとり。バンドのギターがカッコいい!みたいな色気。林檎ちゃんイカスみたいな特別感(最大の賛辞)

筋として、秩序立てて繋がっていない断片みたいな台詞を、歯切れのよいシーンチェンジが芝居のスピードを加速させる。音響、照明が演技と一体となって、さながらよく出来たミュージックビデオのようだ。

そうなんだ。俺もミュージックビデオみたいな芝居を作りたいなと思って、でも雑で、果たせず、その先に行くにはどうやっていいか分からず、今は違う感じのことを志向している。

ここまでやんないとダメなんだ。

ここまでやると出来るんだ。

そんなことを思いながら、目の前の演劇に感嘆しつづけた。

大阪出自の劇団ということで、これは新感線の先にあるものなのかな。

俺、本物新感線て見たことなくて、本当はこれぐらいカッコよかったのかな?

俺が100回見た新感線のフォロワー芝居と認識していたのは、とても拙い劣化版だったのかしら。

殺陣を見て、すげーと口あんぐり。

新感線の芝居を今度、見てみよう。

チケ代たけーな。

見て、やっぱりこのアレは、からまわりえっちゃんの特別なオリジナリティだと思いたいものだ。

そうでなけりゃ、ここまで感嘆した俺が浮かばれない。






posted by ボス村松 at 17:50| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年12月01日

臨死体験

僕は、いつか死ぬ。その証拠に僕が子供のころ、おじさんだった人たちが、ここ数年にまあ、亡くなるわ亡くなる。津川雅彦とか。

同世代の人間だって、よくガンになる。

宮迫です。

でも、それは人の話だ。僕は彼とは違うし、僕のこの一瞬一回きりの時間が、彼の一瞬一回きりであろう彼の時間と同じにすることに意味はない。

そんなのはもったいない。

僕は誰ともちがう。

みんな死ぬからと言って、僕が死ぬとはかぎらない。

僕は誰も歩いてない道を、ただ一人きりで歩く孤高の存在だ。

そんな孤高を謳いながら、歩いて来たマイウェイ。

ところが最近、ご多分に漏れず、自分の体に痛い痒いを感じる時も出てきた。

まだギリ40代だけど、もうすぐ50だからな。

この僕の体もいつか、ではなく、そろそろ、朽ちて果ていく時分かと、背筋がひやりとする。

彼の死に私の死を思う。

おい、ただ一人あるくマイウェイはどこ行ったんだ。



数日前、舞台芸術創造機関SAIの地下アトリエ公演にして、ロングラン公演を観劇した。

受付を済ませて、階段を下り地下三階のアトリエに入る。

わー、これいい。

暗がりの中に、白塗りの男二人。

その二人の役者を囲んで、壁にはダンボール箱が立ち、床にはくしゃくしゃの新聞紙が床に敷き詰められている。

それが地下空間の舞台美術。

照明を抑えた暗がりの中で、ダンボールと新聞紙は、安っちいものではなく、陰影のついた立派なアアトとなっていた。

白塗りの二人が、ふいに声を出す。

それはおどろおどろしく、お化け屋敷系のアトラクションのようだ。

芝居が始まる。

演出の力を感じる。瞬間の絵がカッコいい。

地下演劇の密室空間を要所要所で陰影豊かな叙情のオブジェとする。

30分ぐらい経った頃か。



・・俺、お腹、痛い。



昨日からあった出そうで出なかった便意がカタストロフィの序曲を奏で始めた。

そしてさらに30分経過。芝居が序盤の人物紹介を終え、思いを交差させる最も役者冥利の中盤戦たけなわのころ、

俺は体のあちこちから、脂汗をながしていた。

やばいやばいきたきたきた、わあああああああああああああああああ、・・・・ふぅぅぅ。

やばいやばいきたきたきた、わあああああああああああああああああ、・・・・ふぅぅぅ。を繰り返す。

脳裏に食道がんで亡くなった僕のパパの姿が浮かぶ。

外国航路の船乗りで、タフガイで慣らしたパパ。死に臨む末期のベッドで、一度だけ苦しみに、僕に助けてくれと言った。

この僕のウンコしたいは、ウンコをすれば治まるのだろう。

でも、そう遠くはないいつか、一過性ではなく、決定的に治まらない苦痛が、この痛がりの肉体にきっとやってくる。

いやだなあ。

今現在の便意に苦しみながら、人類普遍のメメントモリに戦慄する俺は、やはり詩人の質なのかもしれない。

目を上げると、舞台上は楽曲に合わせて動きをつける台詞なしパートだ。

ここなら行けるかもしれない。

次、台詞なしパートに入ったら、この席を立ちあがろう。

あの扉を開けて、トイレに行こう。

そう決心した。

しかしほどなく、芝居は伏線回収のクライマックスに突入していく。

台詞なしパートは、もうないと悟った。俺も演出する。それは分かる。

しかし、この怒涛の展開の先に終演があることも分かる。

バブルの芝居だと、そう思わせておいてからドンデン、ドンデンで、目論見よりも3倍続くのだけれども、この芝居はどうだ?



そんな思いの中、舞台上はヒロインが、不在のヒーローを思う独白を入れる。

ヒーローが裏切りに合い、陰影の新聞紙の中に倒れる。

画の作りに、やっぱり力がある。絞った照明は勝利だなあ。

死に臨みながら、俺の頭は思考する。

でも、ドンデンはいらない。一発でサッパリと決めてくれ。




芝居はサッパリと一発で決まって、暗転し、役者が礼をして、どうもありがとうございました、となった。

役者が退出し、制作が最後のアナウンスを終えると同時に俺は席を立ち、トイレに駆け込んだ。

便座にすわり、僕は死から逃れた。

造形の芸術に、椅子というモチーフは定番なのだが、便器を意匠したものはない。

便器こそが、至高。祝福された実用。周りに天使をおどらせてもいい。

ぶしゃー。栓をしていた固いウンコの後に続く、水のようなウンコ。

これブログに書こう。

そんなことを思いながら、5分ほどトイレにこもった。



もう台詞なしパートはないと知る絶望と、


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2019年06月16日

動物電気「ブランデー!恋を語ろう」観劇

前からある劇団で、愉快な笑いを提供してくれるらしい。小林健一なる役者さんが看板役者らしい。

これくらいの前知識だけで劇場に行った。

冒頭、旅館が火事というカキワリの前で「まだ本編じゃないですよー」という雰囲気の演技が始まる。

水をかぶったり、裸になったり。

この人かな?小林健一は。

看板役者の立ち位置は、周りが好き勝手やる中、シュッと立つ、受けの看板の人が多い印象が、小林さんは自分が変な、攻めの看板だった。他、小林さんの横に立って、全方位に全く力の入っていない、ツッコミ、注釈を入れる人がいて、いや、この人は作演出の人がやる佇まいだが、それにしてもここまでは、ないぞ。

会場の雰囲気はもう、本編前のこの場面で仕上がる。おおいに笑い声があがる。暖機運転完了。

    ***

カキワリが撤去されると、家のリビングを表した本格的なセットが現れ、一段階腰の据わった、演技が丁々発止と繰り広げられる。

話の筋は、マイホームを購入した夫婦(夫:国語教師、妻:歌の先生)の下に、学校の生徒、歌の生徒、土地の神様が現れ、誰それが誰それを好きがあって、土地の神様がそれに手を貸すものだからてんやわんや。でも最後は、夫婦仲良く、やっていきましょうというというもの。

正直お話のすじは、劇団の卓越した演技の応酬をのっけるための器で、別に、この話の筋でなくてもよいと思われた。

宇宙旅行の話でも、地獄の血の池の中でも、エンジンの故障や、血液型をネタに、同じようなてんやわんやが繰り広げられるのではないか。

一回しか見たことのない劇団だけれども、そんな思いをした。

将棋で言うと、手筋が確立されている。歩が2枚溜まったら飛車先の歩を突き捨てて、次ぎ歩して、垂らしておくといったような。

戦術、戦略にはやりすたりはあっても、手筋は普遍という、言い方もある。

小林健一は切れ味するどくというよりも、重い鉈の破壊力。彼の演じるストーカー男は、最後神妙に官憲のお縄にかかるのだけれど、その前に「何か面白いことやってから、逮捕されなさい」と、(あ、やっぱり作演出さんだった)脱力演技の正岡泰志に言われて、モノボケを中心とした一人芝居を10分ほどやって、お縄になった。笑った。やっぱり、人の裸はおもしろい。トボけた笑いには、目が細いのが得なんだよなー。欲しがっていない人のように見える。小林健一は目が細い。

ギャグのネタ元が、キン肉マンだったり、CMのティモテだったり、まったく2010年代にアップデートされていないのが、男らしい。

それでいて、俺の斜め後ろに座っていた、お父さんに連れられた10才のお子さんが、「めちゃおもしろかったー」と感慨のため息を観劇後ついていて、おお、時間を超えた! ビヨンドザタイム! とTMネットワークの、ガンダムの主題歌が俺の頭の中に流れた。
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2019年06月07日

日本のラジオ「カケコミウッタエ」観劇

日本のラジオ←(劇団名)の「カケコミウッタエ」をで見た三鷹星のホールで見た。

きれいだった。感じ入った。

俺はこの日本のラジオの代表であり、作演出を担当する、屋代秀樹氏と知り合いだ。

という訳で、以下、ヤシロくん。

ヤシロくんは猟奇事件や精神を病んでいる人が好きで(本当)、爬虫類型宇宙人の陰謀を暴くために(一説によると)芝居をしている。

ところがヤシロくんの芝居に出てくる精神を病んでいる人は、舞台上で、精神病患者であるという記号であるに十分なヘンテコな言動をとっているにせよ、向こう側の人ように感じない。ヤシロくんが自分の不器用で、外界と上手くいかない部分を精神病患者に投影しているのか、テクニックでお客さんウケがいいように描いているのか、もともと精神病患者というのはそういったものなのか、可愛げがある。

今回の精神を病んだ人(主役の一方)は、特に賢かった。のみならず、周囲の人間もギャグを言って会場を沸かせるのだが、言葉の節々が賢い。

ミセスフィクションズ(←劇団名)の岡野くんが出演していて、この岡野くんの演技が、言い回しが、自分ち(ミセスフィクションズ)にいるみたいだった。ミセスフィクションズは、気の利いたことを言ってキレイにお客さんを笑わせる劇団。言葉の節々が品の良い感傷につながる。

今回の日本のラジオは、そっちに寄せてるのかしら。

主役コンビ、精神の病んだ人とツッコミを入れつつ振り回される人を中心に、芝居は進んでいく。

自己啓発セミナーで出会って、合コンでまた再会して、鍋したり、今度は自分らでボランティア団体みたいの作ったり、デモしたり。

芝居の最期の方で、あ、これ、キリストがモチーフになってるんだ、とようやく気付く。ミセスフィクションズじゃなかった。

それっぽいワードは、ヒントとして芝居に頻出していたのだ。

お金持ちの実家の父親(天の父)、鍋(晩餐)、デモ(布教)

しまった、もっと早く気づいてもよかったと思うと同時に、気づくまで90分ほど見聞きした話が、そこで腑に落ちた。どうりで、賢いわけだ。神様の教えなんだからね。

とはいえ、**をモチーフに**をするという芝居は、ともすれば、頭でっかちの企画倒れになる可能性もある。

今作は、役者陣の名演技が、コラージュみたいなシーンのつなぎ合わせを支えた。

あの演技を引き出すのは、どうやってやるんだろうという、名演出でもあった。

特に主役コンビの振り回され役の方の、フジタタイセイくんが出色の出来。上手を上手に留め置かない、肌感覚があった。


posted by ボス村松 at 11:06| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年05月16日

東京にこにこちゃん「ラブノイズ・イズ・ノット・デッド」観劇

東京にこにこちゃん(劇団名)の主宰の荻野くんとは、一度、短編のコンテストで争い、その後一回江古田の焼き鳥屋で昼飲みした仲だ。割に近くに住んでいる。

コンテストの楽屋で席を隣にした。それが最初だ。

共通の知人がいて、それを話の種に、荻野くんの方から話しかけてきた。

俺がお得意の(?)マイルドめの毒を吐くと彼もマイルドめの毒を返してきて、おお、コイツめとなった。

面白いこと言い競争の開始である。

これになると、俺はいつも2、3分でダウンするんだけれども、彼とはその5倍長く続いた。

主導権は俺が握っていたと思うが、彼に手のひらで遊ばされた可能性もある。

彼の作った短編「エレベーターガールの恋」はとても面白くて、コンテストで俺の「ボス村松の娘さんをワガハイにください」は彼の作に負けた。

負けた方が言うのは何だが、芝居の作りがちょっと似てた。

今回、誘われて、果たして長編はどんなものかと見に行った。

やっぱり、ちょっと似てると思った。

ラブホの従業員と、ラブホに雇われた「喘ぎ屋」が最後、ようやく巡り合って両想いになる話。

喘ぎ屋とは、あっはーんうっふーんということで、ラブホのお客さんを興奮させて店の回転を上げるお仕事。

なんやそれ!

そんな仕事あるか!

ちなみに俺の次回作「ボス村松の自転車泥棒」の冒頭の台詞は以下の通り。

   ***

人情刑事「俺は人情刑事。ノンキャリ刑事の上級職だ。殺人許可証を持った殺人刑事が3年間殺人なしで事件解決を続けると、これにジョブチェンできる。」

   ***

刑事にそんな職種はありません。

ラブホ従業員、デリヘル嬢、お客、どれをとってもキャラキャラしたヘンテコキャラなんだけど、品がいい。ギャグ味がナンセンスなので、現実から浮遊しているためであろうか。役者さんが皆、上手なうえに演技に真摯で台詞を間違えないためであろうか。

先輩従業員「でもさー、いっつも男の人と女の人が部屋に入っていくじゃない?なんで男の女のセットなんだろう?部屋で何してるのかなあ」

先輩従業員はラブホで働きながら、雄しべ雌しべレベルで、セックスを知らないのであった。

そんな人はいない。

この後彼は、デリヘル嬢にセックスの手ほどきを受け、彼女との結婚を語る。

演出は彼のバカさ加減よりも、イノセントな愛らしさに力点を置かれていた、・・ように思う。

女性恐怖症のマッサージ師(でも自分のマッサージで人が気持ちよさそうにしてると射精してしまう)の恋も、ほほえましかった。

今作、最大のケレン味であるところの「ハリウッド大作風オーケストラ楽曲を背に、登場人物が一人一言決意を語って、いなくなった喘ぎ屋のヒロインの代わりにラブホ各階に喘ぎに行く」場面に、そうそう、こういうの好きーと思った。

そして前述の通り、ラブホ従業員は、いなくなった喘ぎ屋を探し当て、抱き合って、大団円。

「ラブホ中が喘いでいても、その中から、僕は君の喘ぎ声を探し当ててみせる」(うろ覚え)

設定、へんてこ。要素、王道。の作劇アプローチですな。

終演、拍手。

荻野くんに面白かったよーと伝えて、自転車を駐輪場から道に引っ張る。

面白かったよーでは足りてない気がして、もう一言、泣いちゃったよ、と嘘をついて自転車に乗った。

泣きはしない。

posted by ボス村松 at 14:40| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月02日

もじゃもじゃ「マンボウ」観劇、他

DMの封入、発送作業おわたー。

透明のビニールにチラシと案内文を入れるのだけれど、ビニールのテープを折り込んで口に封をする正解のやり方がまだ見つからない。

これまで、延べ3000枚ぐらいは折ってるはずなんだけど。

正解知ってる人がいたら、教えて欲しい。

   ***

先週の土曜に芝居を二本見た。

草野くん出演の「喪服の似合うエレクトラ」とかれんさん照明の、もじゃもじゃ「マンボウ」

喪服の似合うエレクトラは、3部作一挙上演で四時間芝居。

第一部、立派な演技だ! 第二部、少し飽きた。

第三部、さすがの迫力! いや、この脚本は良く書けてるな相当な名作なんじゃないの?と思って後で調べたらノーベル文学賞だった。どおりで格調高いと思った。

若ハゲの草野君が美青年役を振られて、とうとうヅラをかぶることになったということで見に行った本作、草野君は丸坊主で美青年を演じてた。詐欺だ。ヅラでは何が悪かったのだろう?


もじゃもじゃ「マンボウ」

トモダチの家で自殺をほのめかす動画を収録する、迷惑な不思議ちゃんのお話し。

過剰さを極力排した淡々とした喋りが舞台上にあると、逆にその色が饒舌にその芝居のカラーを謳う。

時間軸が現在→一ヵ月前→一ヵ月と一日前→また現在にもどるという構成。

俺は、最初わけがわからなかった。

でも、実はこの会話はこういう前提があって話されたものでしたという、のが分かってくる。

実は、実は、実は、の連鎖。

そこにはミステリーを読み解くような感興があった。

不思議チャンに部屋を貸しているトモダチが、ポテチを5袋ほど開けて同時に食べる演出がある。

その事は彼女が選べない、決められない質であることを示している。

隠喩として上手い、気が利いている。

全編を通してそんなようなセンスに満ちていて、カッコいい。すこしゴメンナサイと謝りたくなる。

不思議チャンがアメリカに旅行したことを話す時に、「NYって本当にあったんだよ!ビル街の中に突然鬱蒼とした木々が現れたと思ったら、それがセントラルパークで! ・・云々」と語る。

意味としては「世界は自分の見えるところまでしかない」ということなのだけれど、「世界は自分のみえるところまでしかない」とただ言うよりも、とても豊かだ。ライ麦畑で、主人公が都会の公園に座る場面があるんだけど、それを思い出した。そこで主人公(ホールデン、だっけか?)が何をしたか覚えてないんだけど、なんか、思い出した。観劇で何かを掘り起こされるのは、楽しい経験だ。

センスのいい、無理目のカワイコちゃんみたいなお芝居。

でも、そのセンスはどこか遠くに行かずに、片足は人情話に残っていた。

自殺したっぽい姿を消した不思議チャンが、ディズニーランドの中継の端に見切れてた。

トモダチ二人は、彼女を探しに部屋を出る。ディズニーランドへ。

よい芝居を見たなあと思った。





posted by ボス村松 at 16:35| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月19日

MSPインディーズ・シェイクスピアキャラバン 『フォーティンブラス』観劇

いやーよかった。元気もらった。

自分の芝居の練習中に面白い芝居を見ると、やっぱり俺もガンバロウという気持ちになる。

このフォーティーンブラスという芝居の内容自体が、バックステージもので、ハムレットの端役のフォーティーンブラス役に振られた役者のところに、フォーティーンブラスの父なる亡霊が現れて、大騒ぎ、のち、役者が腐らず与えられた端役を全うする気持ちを得るというもの。

俺がガンバロウと言う気になるのもひとしおだ。

この公演は、明治大学演劇関係者の有志の企画だ。

扉座の同作を、コンパクトめに脚色しての80分。

俺は遠い昔、大学時代にこの扉座のフォーティーンブラスのビデオを見て、おもしれーと観劇したのだった。

だから今回は、出演者の草野くんに誘われて、珍しくホクホクと劇場に向かったのだった。

みんな、上手だった。脚本によりそって、よどみなく前に進んでいく好演技だった。

俺を誘ってくれた、草野くんがまた、出色の出来。

少々型にはまった感じの演技をする癖があるように、これまで俺には見えていたのだけれど、肩の力が抜けてスッと一本、頭から足元に筋が通っていた。そこから、どんな演技が出てくるのか、こっちが役者の方に寄っていく佇まいだった。いうなれば、のどかさんみたいだった。

彼は我が劇団鋼鉄村松の来年4月公演の主役を張ることが決まっている。大変頼もしい限りだ。

会場は天井が低く、灯体が近いので、本数は少なくても効果がハマったときの迫力があった。照明よかった。

よかった。

俺も頑張る。負けないぞ。


posted by ボス村松 at 10:52| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

茶色のジャケット

アガリスクエンターテイメントの「卒業式、実行」を見て来た。

俺が客演した演目「紅白旗合戦」のパラレルの世界だ。

どちらも同じ高校が舞台で、どちらも卒業式に国旗国歌を掲揚歌唱するかで揉める。

そしていい塩梅のところに落ち着く。

パラレルと言うのは、登場人物が違う。

あと時期が違う。

「卒業式、実行」は舞台が卒業式当日のショーマストゴーオン、「紅白旗合戦」は当日のちょっと前の会議モノなのだ。

その中で同じポジションの役柄というものは存在する。

生徒会長、卒業式実行委員会委員長、校長先生、などなど。

そこに付け加えたいのが、やや飛び道具扱いの、生徒側に理解のある先生ポジション。

俺は「紅白旗合戦」で、その枠の社会科教師を演じさせてもらった。

懐かしい気持ちで公演を見ていると、紅白旗合戦で俺が着ていた衣装の茶色のジャケット、そいつが現れた。

俺がいなくなった中、ジャケットだけ参戦している。

着ているのは、同じポジションの美術教師役。

まじかよ!!

騎手乗り換えだ!!

どうしたって、彼と自分とを比較してしまう。

その美術教師役は、ちゃんと台詞を覚えていた。

なんてこった!!

そして、笑いのギアチェンジ役として大変芝居に利いた演技をしていた。

くっそー!!

茶色のジャケット、好走。連に絡む活躍!!

美術教師が笑いを生むたびに、俺は嫉妬した。

嫉妬して、へこんだ。

茶色のジャケットめ!! 裏切者!! 浮気な奴!! 

・・そんなような気持ちを、終演後、出演者のSくんに明かした。

するとSくんは、あの茶色のジャケットは、似てますけど前のジャケットと同じじゃないですよ、だって。



心が少し楽になった。




posted by ボス村松 at 20:09| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月27日

かきあげ団「かきあげ団、海へ行く」観劇

一年ぐらい前から、ツイッターの俺のタイムラインにその名が現われるようになり、その自暴自棄みたいなつぶやきにシンパシーを感じていた、かきあげ団。

今回、「チケットがまるで売れていない。客席が放課後の教室で告白できるレベル」とのつぶやきを見て、これは男気を見せるところかと、俺は決して軽くはない腰を上げて、その芝居を観てきました。

さて、かきあげ団。団を称するのに反して、観たお芝居は、団長さん(芸名)と、団員くん(芸名)の男女二人芝居だった。

話の筋が特にあるわけではなく、会話の妙で楽しませるのはコント的。

舞台からはみ出ないで、舞台の中で収まりよくキレイにまとまっているのは芝居的。

団長さんがアホで、ほがらか。団員くんが、賢くてメンヘラ。

二人がお互いをくさしながら、時に、共感しながら、一時間しゃべった。

会場は新宿眼下画廊。

お芝居の設定はシンゴジラが出て眼下画廊は地下にあるから助かった、さあどうしようというもの。

団長さんはアホだから、なんでだか「海に行きたい。行こうよ」と団員くんを誘う。

団員くんは、いやですよと、至極まっとうな反応をする。

でも、最後には二人で鎌倉の海に行きました。

おしまい。

そんな感じ。

団長さんと団員くんの自在感がよかった。

あんなに堂々と、いっぱいの台詞を人前で回せたらさぞ楽しいだろうなと思った。

お客さんが多ければ、なおよかろう。

お客さんはなるほど、すくなかった。

団長さんと団員くん、男女二人ということで、二人はつきあっているのかな。つきあってないのかな。

付き合ってないほうがいいなと思った。

それで、団長さんが主導権を持って稽古とかしてるといいな。

団長さんなんだから。

逆に、団員くんが実は作演出で、団長さんと付き合っていて、稽古場をまわしていたら、ちょっとやらしいな。

団員くんは島崎和歌子のファンということで、うちのバブルといっしょだなと思った。

まあ、うちのバブルはヤリチンの恋多き男なので、団員くんほどの一途さはなく、バブルの恋の遍歴は、和歌子、眞鍋、モー娘。の二番目ぐらいに辞めた子、長澤、堀北、ガッキーさん(now)と数えれば枚挙にいとまがない。

和歌子LOVEに関しては、団員くんと並べると失礼かもしれない。


posted by ボス村松 at 17:56| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

サムゴーギャットモンティブ「メンタルヘルスケア」観劇

おもしろかった。



以下、お話。もう公演も今日の夜の回を残すだけだから、書いてもいいよね。



「これ、僕のメンタル」って言って、手のひらの中にパソコンのマウスみたいな形状の光る物体を持つおじさんが主人公。

「よわってるんだ」とおじさん。

メンタルを小動物のように扱う。

そんなおじさんに、お医者さんや同僚や道すがらの人たちは、心配したりツッコんだり。

おじさんは、そんな弱っているメンタルを森に返すべく、森の奥深くに入っていくと、心配した奥さんが探しにくる。

奥さん美人。

一緒に帰ろうとするところに、突然、インディージョーンズが現れて、わやわやしているうちに、インディージョーンズのお宝とメンタルが混ざって、どれがメンタルかわからなくなる。

インディージョーンズはおじさんの大好きな映画。

インディージョーンズの世界(深い森)でおじさんは、インディーと冒険する・・というわけでもなく、おじさんはただただ戸惑う。

インディージョーンズの冒険は結構おじさんとは関係なく、そっちはそっちで進んでいって、おもしろおかしいテイスト。洋画吹き替え調。

だんだんと、インディージョーンズの世界(深い森)が実は、おじさんの心の中なのではないか?っぽい演出が入りつする。

奥さんはインディージョーンズとお芝居の最後の方で冒険する。

おじさんはそのとき、本筋とは関係ない感じで、変なことになってる(おおむね芝居中おじさんは変なんだが)

奥さんはインディージョーンズと遺跡の探検中、

「わたし、ここ来たことがある」と言い出す。「(おじさんと)最初にデートした映画館」

二人の初デートの時の回想とも、今、森の中で実際に起きている出来事とも、見てるこっちにはどっちでも思えるような、いい感じの雰囲気の中、二人はインディージョーンズ4を見る。

おじさんは、がっかりする。

インディージョーンズは1,2,3と傑作だったのだが、4は駄作だったのだ。

おじさんの人生とインディージョーンズ4がかぶる。

そんなおじさんに、おくさんは、「私、けっこうおもしろかったですよ。この映画好きです」という。

「私は、1も2も3も見たことがなくて、これが初めてのインディージョーンズだし」という。

この時点で、奥さんは実は半年前に亡くなっていて、それがきっかけでおじさんのメンタルが弱っているということを、

観客は知っている。相当グッとくる。奥さんは美人で演技も上手い。

インディージョーンズの冒険は、インディージョーンズの方で勝手にすすんでいて、ラストの盛り上がり部に至る。

裏切り、仲間の死、崩落していく遺跡。

おじさんは、崩落していく遺跡の中で、「この森で二人で暮らせないかな」と奥さんに言う。

おくさんは、「あなただけでも森を出ていかなきゃ」という。

インディージョーンズとおじさんは、トロッコで森を脱出。



お察しの通り、ファンタジー色が強くて、説明はぶいてそんなもん、と投げっぱなしのところが、(こういうとおこがましいが)俺の書く脚本に似てる。

ちなみに、俺の3月に上演する作は、「今日と言う一日を、昨日から明日へと運ぶトラックの一夜と、そのカーステレオから流れる深夜ラジオの話」

うん。似てる。

似ててイマイチの芝居を見ると、お客さんはこんな風に、俺の芝居をみてるのかなあ、と死にたくなる。

似ていてステキな芝居を見ると、憧れて、こんなの俺にはできないや、とへこむ。

実に損な性分の俺ではあるのだけれども、憧れによる、星に向かって歩き出す効果もあるので、トータルでは元気をもらった。

サムゴーギャットモンティブ「メンタルヘルスケア」は、オシャレでデートにも使える作品でした。

小劇場では、こんな芝居を見たい、という芝居を見た。演劇IQが高い。

ミセスフィクションズの、ヤッキーゴーホームと伯爵のおるすばんのDVDを見た時と同じ気持ちだ。

あと、ミセスフィクションズのお父さんは健忘症。


この芝居は、えんちえさんが出演ということで、誘われて見に行ったのだが、えんちえさんは、一番話にからまないぐらいの役柄だった。

でも、超絶上手かった。前回の鋼鉄村松のお芝居で、彼女と共演してこいつ上手いなーと思ってたけど、こんな上手かったのか。役者ぢからで、違いを見せつけていた。台詞回しはもすごけりゃ、この場面のこのガヤの時の表情がソレ??という驚きの瞬間もあった。ゆるみがない。彼女と共演して、よく俺、今、生きてるな。

サムゴーギャットモンティブ、何語でどんな意味があるのかも分からないけど、劇団名でもう、やりそうな匂いはしてましたよ。







posted by ボス村松 at 18:20| Comment(0) | 観劇の感想文 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月18日

インプロ

即興劇(インプロ)というジャンルが小劇場にはある。

脚本なしで、設定だけがあって、それに当為即妙の受け答えをしたものが勇者という形式である。

得意な役者と、そうでない役者がいる。

即興劇の参加者全員が能力上位であれば、まるで脚本が前からあったみたいな一つの世界が作られ、拍手喝采があがる。

そこまでいけば、お客さんにも、その即興劇が一つの作品として認識されるのだろう。



仕切る人間が上位なら、あとの演者は並でも、ある程度の時間を持たせられる見世物になる。

しかし作品とは認識されない。時間つぶしとして、有効だったぐらいに留まる。



今日、シアトロンで即興劇をやってきた。

敗れてきた。

その即興劇のなかで、全く機能していなかったわけではない。

スベリの人としてはそんなもんだった。。

くやしいか、くしやしくないか、と言ったら、くやしい。

俺にとって、上手い人に見えるように願って、今回のチャレンジに立った。


俺は強い言葉で、すぐシュートを打ちたがる。しかも、ゴールに入れる確信はなく、目の前にボールが転がってきたので、強キックをふかす。ボールはゴールのはるか上。

上手い人は、平易で次につながる言葉をつかって、パスをオープンスペースに転がす。


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2017年07月05日

ピクニック

ボス村松の竜退治が終わって、残った日本酒を飲んだ。萩の露、うまいな。

あまくて。

しかしラベルには超辛口と書いてある。

あれー。

しかし最初に口に含んだ時の最初のアタックみたいなの、刺激は確かに強い。

これか? 日本酒の辛口のいうところは。

俺の言う、甘いお酒が好きというのは、この甘い辛いに関係ないのかもしれない。

日本酒むずかしいな。



バイト先から求められている検便の採取に成功した。

危ないところだった。明日提出期限という、きわきわだった。

忘れないように、小指に輪ゴムをしていたのだけど、それは半日ほどで外れてどこかにいってしまった。

何気に大便器にすわり、先っちょぐらいを出した時に、あ!と気が付いた。

あぶないところだった。



今月16日、演劇フェスシアトロンに参加する「ボス村松のピクニック」の練習をした。

グレートニュームラマツとの二人芝居だ。15分から20分の芝居になると思う。

グレートが楽しそうだ。

DJグレートは本意ではなく、台詞を覚えて役を演じる、いわゆるお芝居やりたかったんだなと思った。


チケットはコチラから




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